22日、東京都千代田区富士見にある法政大学の外濠校舎で法政二高「11・3事件」をいま考える(話題提供者:髙栁俊男国際文化学部教授)という法政学研究会のシンポジウムがありました。
「11・3事件」とは、映画「パッチギ!」にでてくる法政二高の事件についてでも紹介した、「1962年11月3日、文化祭に射撃部の展示を見に来た神奈川朝鮮高校の辛英哲君が、二高の生徒によってライフル銃の銃床で殴られ、死に至る事件」で、これを契機に法政二高では、「民族」の問題を含めた平和教育・民主教育を実践してきたのだとか。
シンポジウムは事件当時、日本と朝鮮半島で起きた事柄や当該の事件への法政二高の対応、事件の報道のされ方などを資料のコピーと共に配られたレジュメに沿って進められ、最後に参加者の意見を聞くというものでした。
以前紹介した「映画「パッチギ!」にでてくる法政二高の事件について」にない情報としては(以下・は要旨)
・加害者の法政二高生は射撃部に「かつて」所属していたのであって、現役の部員ではなかった(にもかかわらず、射撃部は廃部に)
・被害者の朝高生は事件当初は意識明朗で、鏡に向かって髪を整えたりもしていたが、その後倒れ、救急車で搬送中に昏睡状態となり、翌々日の11月5日午前0時過ぎに死亡
・在日朝鮮人や人権擁護団体の資料には、加害者が何の脈絡もなく突如、被害者に凶行を働いたなど、加害者の凶暴性や残忍性を強調した記述が多い
・事件に対する法政二高の迅速で正当な対応を評価し、国士舘などと比較して高く評価する記述がある
・被害者は、性格明朗で、正義感・責任感が強く、家も裕福であって、脅迫をするような子ではないという朝鮮学校側の証言
・朝鮮学校側から抗議団が来ていた
・学校が主要全国紙への謝罪公告を掲載
・法政二高に残る文書(11月16日)には、法政二高と朝鮮学校間での「統一見解」として、「報道されているような脅迫的な事実はなかったと明らかになった」とされ、基本的にこの線で展開されたと思われる
・12月6日付の報告書類には、関係する生徒からのヒアリングに週刊誌の記載よりもはるかに明確かつ詳細に被害者の恐喝の事実が記載
・当時の生徒会長は、事件の翌月発行された新聞部発行の新聞の投稿内容を「法政二高教育の30年間」(1969年発刊)のなかで批判されたためか?生徒会長はこの事件については語りたがらない?(あくまで推測)
・事件の半月後に法政二高の生徒が大田区の神社で17歳の在日韓国人の少年に左胸をあいくちで刺されて死亡した事件があったが、在校生ですら記憶にない人がおり、これについては「11・3事件」で校内がそれどころではなく、気がまわらなかったとの推測があった(あくまで推測)
レジュメと共に配られた資料のコピーのなかには、事件翌月の新聞部発行の新聞に生徒会長の投稿があったのですが、それを読むと、当該の事件を朝鮮学校と法政二高内の同調者?が政治的に利用しているとの指摘がありました。
学校で民族の問題や民主的な教育のあり方について学んだり話し合ったりすること自体は否定されるべきものではないので、現在、法政二高が取り組んでいることについては異議はありません。
ただ、当該の事件が政治的に利用された結果、法政二高の取り組みがはじまったのではないのかとの印象は拭い去れませんでした。おそらくはこのシンポジウムを企画した側も、そういった学校の負の側面も自分たちの歴史として認識し、みんなで考えようと、このシンポジウムを企画したのでしょう。
いずれにしろ、この事件のきっかけや対応など、はっきりしない部分については、今後も調査が続けられるようです。
蛇足ですが、シンポジウムでは法政二高の関係者が、当時の校風について率直に語っていました。現在の同校の評価とは違った印象を受けるような発言もありました。
また、法政大学の隣には朝鮮総連がありますが、交流はないとのことです。朝鮮学校OBはシンポジウムに参加していました。
2013年2月23日土曜日
法政二高「11・3事件」をいま考える
2:55
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